陸橋から電車を見下ろす。まだ肌寒い三月。一人の部屋に戻るのが嫌で、ここで酒を飲んでいる。
「何、飲んでるんですか」
あたたかい声がした。振り向けば春がいた。
つやつやとした茶髪から覗く、まあるく大きな耳。柔らかくこちらを見上げる瞳。その薄い微笑みに、春の宵の懐かしさに満たされる。春は後ろに手を組んでゆらゆらと歩み寄る。二つ結びの長い髪が揺れる。春の訪れ、気もそぞろ。わかっていてもどうしても、私の心はぐらついてしまう。
「こんなところでお酒?」
「お前、春じゃないな」
つうんと不服そうな表情を一瞬浮かべ、ぽんと小さな音。白い煙。そこから現れたのは秋だった。姉と同じ丸い耳。瞳は春より冷たく、浮かぶのも苦笑い。
春もいつも何かに化けて遊んでいた。たぬきは化けるもの。そこに悪意はない。けれど、置いていかれた私の前に春の姿で現れるのは、勘弁して欲しい。
「なんで分かるんです? 自信あったのに」
「地面に映った影。髪型が秋だった。ショートで」
「ええっ!?」
嘘だった。影なんて見ていない。本当は、春が現れるはずないと思っているだけだ。秋は誤魔化すように言う。
「でも路上飲酒はお姉ちゃんに怒られますよ、お姉ちゃん帰ってきたら」
「……」
「帰ってくると思いますよ? 気まずくて顔出せないだけかも」
一人の部屋は春が来る前と変わらないはずなのに。このまま季節の春が来ると思うと空虚な胸が震えた。無理矢理布団に潜り込む。
あのころは、この布団も春のおひさまのにおいがしたものだ。
陸橋から電車を見下ろす。線路際の満開の桜から目をそらす。
あたたかい声がした。
振り向けば春がいた。川面に浮かんだ微笑みに、朧月のまあるい輝きに、揺れるつややかな毛先に春が満ちる。
「お前、春じゃないな」
どうして毎日来るんだよ。秋は秋で、姉を案じて思うところあるのだろう。けれど、私はいま秋ときちんと向き合えない。
変身を解くが早いか、秋は呆れ顔で何か差し出す。カップ酒だった。
「せめてこっちにしましょう」
「お前これどうやって買ったんだよ」
そんなの大人に化けたら買える。秋は自分の分のカフェラテのカップを掲げた。
「お花見です。春ですから」
生あたたかい風が、桜の花びらを寄せ、春を祝福する。
地面に長く落ちた秋の影の中、二つ結びが揺れる。
二人で乾杯する。春のにおいがした。
* * *
『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の練習問題⑩
「むごい仕打ちでもやらねばならぬ:ここまでの練習問題に対する自分の答案のなかから、長めの語り(八〇〇字以上のもの)をひとつ選び、切り詰めて半分にしよう。(後略)」
への回答です。
元文章として練習問題④問2を選択。(使っているエディタのカウント方式で)2072字あるので、1036字以内に削るルールではじめて、最終的に1031字になりました。
いや半分に削るのは無理でしょ。最初自然に要らない場所を落として字数を削る方向の推敲をしたら1600くらいまでしかいかなくて、ええいと思って残したいポイント(春に化けている秋、に化けている春、の構成)以外はバッサリ切る方針で切っていきました。無茶なことをしているという自覚を持った上で、出来上がったものはその無茶による歪みは出つつもわりと良い気もしていて、終わってみればなかなか楽しい練習問題だなと思いました。最終問題にこれ来るの過去の自分と戦え感あってギミックラスボスとして良いな。
合評会では結構ポジティブなコメントをいただけた気がします。描写(特に、風景、キャラの容姿、主人公の屈託)の削り方に対して、読者に任せる度合いが変わっている、削った方は想像の余地、膨らみが出ている、みたいな意見をもらったのが、なるほど結果的にそういう効果が出る面もあるんだなと思って面白かったです。
* * *
これで文舵練習問題が最後まで(微妙に飛んでる追加問題とかはあるけど)終わりました!
何度か言っていますが、これは合評会に参加して定期的に締切や感想を言い合うことで何とか続いたという感覚が自分ではあります。一人だったら多分すぐ飽きてるので。その意味ですごく良い機会をいただきありがたかったです。
完全に文体の舵をとりつくしたので無限に良い小説が書けるな。よろしくお願いします。