『文体の舵をとれ』練習問題(7-3)

【問四(潜入型の語り手)】

 神谷内香織は湯に身体を沈め、息を大きく吐いた。急に始まったこの二人旅、いきなり知らない土地で宿無しになりかけ、なんとか見つけた宿は廃屋同然。どうなることかと緊張続きだったところから、存外と感じの良い露天風呂に浸かって、ようやく力が抜けた。隣には恋人にして旅の道連れ、燈花がいつも通り泰然と目を細めている。普段の燈花はめったに怖がったり焦ったりしない、それこそ汗の一滴も流さないのだけれど、さすがに風呂であれば額に汗も浮かぶものだと香織は新鮮に思う。先ほどまでの一連を一旦脇に置き、このやけに静かな貸切状態の露天風呂で、久しぶりに恋人と二人肩を並べ湯に浸かっていると考えれば、悪くない。そんなだから急に気分も上向いてくる。

 香織の様子を横目でみやる稲荷木燈花は、表情は平生と変わらぬ涼しいものだったが、内心は穏やかでなかった。先ほどから声が出ない。四分の一とはいえ怪異の血を引く燈花は、この湯が普通でないことくらいはすぐに気づいた。しかしその異常性との距離を測りかねていた。この沈黙は、不快なものではない。むしろ、風呂が静かというのは良いことだ。旅行先で大浴場に行って、なにか集団が大声で喋っているのに出くわしてしまうと少々悲しい。それと比べたら二人で静かな露天風呂を貸切というのは悪くない。だが胸騒ぎがする。

 彼女の胸騒ぎの元は、この黙の湯の効験ではない。もとより黙の湯はこの地にあって、獣の声を鎮め、人の言葉を飲む、ただそれだけの怪異、妖怪、あるいは小さな神である。いまも訪れた二人を見守っているには違いないが、害をなそうなどとは思いもしないし、思ってもできない。ただ黙ってそこに在るのみだ。ずっとそうだった。それゆえに、救えなかった者もいた。

 例えば、黙の湯は病には効かぬ。それなのにどこからか誤った噂を聞き、湯治にやってくる者がいる。流浪の旅人であった男は、連れる少年の病に酷く動揺した。初めこそ邪魔な荷物としか思っていなかった少年に、もはや男が誰にも向けられずにいた愛情の全てを傾けるようになっていた。少年を湯に入らせ、それも叶わなくなってからは湯を小さな口に運んだ。だが黙の湯は病には効かぬ。周囲の物を黙に沈めるだけである。少年の死後、男の悲しみようは尋常ではなかった。泣いても声は出ない。喚いても声は出ない。叫んでも声は出ない。ただ悲しみの血だけが止まらない。輝く宝石が砂となり消え、燦めく花々は風に吹き散らされてしまった。少年の身体の隣に眠り、髪を撫で、頬に口づけた。やがてその肌が変色し、甘い腐臭を立てるようになると、男は少年の身体をしゃぶり、肉を喰らい、骨を舐めた。黙の湯の効験がなければ、男が人食いと化した今際の黒い咆哮が轟いていたことであろう。

 人食いという獣に落ちながらも、知恵は失われていなかった。故にこのような怪異は鬼とも呼ばれる。温泉宿の者を全員食ったあとは自分が宿の主人に成り代わり、時折訪れる客人を黙の湯で襲えば叫び声を上げられる心配がない。今夜の女二人は久しぶりの若い肉のごちそうだ。唾を飲み、足音を殺して脱衣所に這入れば、人間の肉のにおいが芳醇に漂ってくる。黒く塗りつぶされた鼻腔がひくつき、目は爛々と輝きを増す。むずかる胃、痙攣し始める顎を抑えて湯殿に向かえば、湯船に浸かる二人も人食いに気づいたようである。

 香織は真人間、急に現れた濃密な怪異の気配に半ば腰を抜かしている。このままでは餌食になることを免れない。必然、人食いに立ち向かえるのは燈花の方である。燈花は表情は変えぬまま、迫る人食いの気配に集中しながら、必死に考える。立ち向かえるといっても彼女に出来るのは変身程度。この怪異の苦手とするなにかに化けるのが、変化の妖狐の真骨頂であろうが、一体何に恐怖してくれるか、さすがに情報がなさすぎる。

 ちゃぶり、と人食いが湯船に足を踏み入れる。人食いが闇の逆立つ背をぐるりと回し、香織の方に向く。震え、弱い。これを先に食おうと人食いは考えた。そしてその考えが、もちろん香織にも燈花にもたちどころに知れた。香織が叫ぼうとして喘ぐ。声は出ない。燈花が立ち上がる。香織に危機が迫れば、動かないわけにはいかない。立ち上がる勢いそのまま、燈花の身体は伸び上がる。巻き上げられた湯が身体に沿って落ちるよりも早く伸びるものだから、泉の噴き出す勢いだ。その身体は黒々と、香織に狙いを定めた人食い鬼、そのものに変わる。相手に化ける。燈花が選んだのは変化の妖狐の技の基本にして王道。そのままその巨体でもって湯船に勢いよく倒れ込む。再びあがる水飛沫。叩き付けられた水面のけたたましい音。黙の湯の神もこのときばかりはその性を曲げてくれたのかもしれない。湯殿に響き渡った気持ちの良い音に、長らく大きな音を聞かずにいた人食いは縮み上がる。訳もわからず手足が動き、もがきながら湯を出て逃げ去る。

 燈花は水面から顔を出してやっと、自分の咄嗟の対処がうまくいったことを知る。まだ動けずにいる香織に笑いかけてやると、苦笑いが返ってくる。自分では平静な顔をしているつもりだが、髪は乱れて頬は火照り、なにより変身の解き方が中途半端でまだ身体が黒々と鬼の風体をしていることに、燈花はまだ気づいていない。

 * * *

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の練習問題⑦

「400〜700文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。(中略)

問四:潜入型の語り手

 潜入型の作者のPOVを用いて、同じ物語か新しい物語を綴ること。

 問四では、全体を二〜三ページ(2000文字ほど)に引き延ばす必要が出てくるかもしれない。(後略)」

への回答です。

 問四が潜入型の語り手なので説明しやすい、かつ、字数もアップグレード可、ということだったので、この状況設定は問四になってはじめて全貌が語れるんだろうなぁというのは初めからある程度想定して書いていました。なので問三までの回答文だと不明な部分が残るというのは想定範囲内ではあった。だけど問三の語り手を宿の主人と誤読されたのは想定外で、それは想定しておくべきだったなと思った、というのが前回ちょっと書いた、しまったと思ったことの内容でした。黙の湯ちゃんは美少女なんだが……。

 しかし、語りの様式としては潜入型の語り手が一番難しく感じました。ともすると三人称限定視点を切り替えているだけなってしまいそうというのと、そのときに視点の混乱が生じないように、可読性を損ねないように……というのを意識すると結構窮屈で、あまり伸び伸び書けなかった感じがあります。一方で状況の説明やそれぞれのキャラの書き分けがもっともやりやすいのはこのPOVでもあり。合評会でもそのあたり文体の雰囲気の変わり方について意見をいただけたのが勉強になりました。

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