『文体の舵をとれ』練習問題(8)

【問一:明示的な視点の切り替え】

 神谷内香織は、目を開けているのか閉じているのかわからなくなった。まばたきをして、かっと目を見開いてみる。すると少しの間は確かに目を開けていると思えるのだが、数歩進むうち曖昧になる。そんなとき、前に伸ばした手がなにかに触れる。「ひぃ」だか「ひゃあ」だかわからない変な声が出た。

「良い声だね、香織っち」

 みとはちさんの声がした。

「なんで黙ってるんですか!」

 香織は小さな声で抗議する。こちらの足音は聞こえるのだから、そこにいると教えてくれればいいものを、黙って気配を消していたわけで、質が悪い。

「いや、会話文は控えめに、ってね」

 闇の中、みとはちさんはニヤリと笑って眼鏡を上げたに違いない、と香織は思う。

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「みとはち」こと三卜八恵は、この暗闇の儀式を楽しんでいた。しかも、楽しんでいるのは自分だけだと思っていた。話を持ち込んだ香織は責任感から行動しているのだし、燈花は香織に頼まれたから、はるかは八恵に頼まれたからそれぞれ参加しているだけ。積極的な参加者が自分一人なのは明らかだと八恵は考えている。それなのにこの順番にしたのは、香織っちやっぱり真面目だなぁ、と八恵は思う。私なら喜んで順番代わるし、そのことは香織っちもわかってるだろうに。八恵がそんなことを考えながら歩き続けていると、意外と早く目的地に着く。

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 草苅はるかは、さっきから左手で触れている壁のざらつきに奇妙な心地よさを感じていた。人間、五感の一つを封じると、別の感覚がより鋭敏になる。彼女は生来その傾向が強く、並外れた集中力を発揮している間、周りがてんで見えなくなってしまうのだった。草苅さん、と呼ばれてはるかは立ち止まる。いけない、壁の目地の触感に集中してしまっていた。いったいどれくらい、闇の中を壁沿いに歩いてきたのだろう。見えもしないのに、彼女は後ろを振り返る。

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 稲荷木燈花は、怪談話や都市伝説には通じている方だ。だからこの話ももちろん知っていた。けれど、香織の今回の計画には素直に驚いた。燈花は都市伝説がなぜ生まれるかには大いに自覚的だったが、それを逆用してやろうという発想には至らない。香織はもうその道具的な思考を自分の物にしているようだ。怪異を呼びだそうだなんて。

 大学のキャンパスは広く、他学部の建物なんかには行く機会もないし、知らない場所があるのも普通のことだが、自らが四年間所属したはずの文学部、それも一号館の地下にこんな大空間があるとは毫も知らない話だった。正方形の大部屋、冷ややかに静止した空気、暗闇の中で壁沿いにひたすら歩く。突き当たった隅にうずくまる身体を、燈花はゆっくりと揺り動かす。

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 神谷内香織は自分に触れる熱を感じる。うとうとしていたことに気づいて、急速に意識が浮き上がる。目を開いたが、本当に目が開いたのかもわからない闇。その中で、自分を揺すり続ける手の熱と、息遣いを感じている。

【問二:非明示的な切り替え】

 全くの光のない闇の中、視覚という情報を奪われた状態に、彼女は慣れなかった。左側は壁があるからまだ良かった。手を触れていれば、すくなくともそこにあるのが壁だと、壁しかないとわかるからだ。壁はひんやりざらざらとしていて、どうやら木製ではないらしかったが、それ以上のことは彼女にはわからなかった。だがそれでも、右側に広がる虚無の情報のなさとは比べものにならない。右側には広い空間があるはずだった。何もないのかもしれないし、机や椅子くらいはあるかもしれない。だが何も見えない以上、右側にも実はすぐのところに壁があるということだってあり得る。それともすぐそこに、誰かが立っているかもしれない、と彼女は考えそうになり、背の底がぞわりと冷えて、慌てて自分の足音に集中する。いつの間にか一辺を歩き終えたらしく、彼女は部屋の隅に到着した。それを受け、代わりに歩き出した彼女の足取りは軽い。彼女はほとんど物怖じしないし、するときはそれを楽しんでいるような性格だ。左側に壁があるかどうかは時折確かめるが、子どもが通学路で無意味にガードレールを触るがごとく、あるなら触っておこうというだけの手つきだった。彼女はこの順序では自分がそれと直接対面するわけではないとわかっていたが、それでもこの場に立ち会い、参加できるだけで楽しかった。ことが済んだらその子細を二人から聞くのが待ちきれず、自然歩調は早くなり、存外と早く自分の手番を終える。次にバトンを渡された彼女の足取りはゆっくりだが、やがて彼女はそれを意識しなくなる。彼女は左手の触れる壁に集中していた。モルタル仕上げのざらつきが指の腹を撫でる。自分たちのゼミ室や、その前の廊下の壁のモルタルはもっとなめらかだったような気がする。けれど、彼女はあの灰色の年季の入った壁を、目を瞑って触ったことはない。だから触感が違って感じられるだけなのかもしれず、実はまったく同じ仕上げなのかもしれない。それを考えている間の彼女は自分が歩いていたことすら忘れていたが、やがて名を呼ばれ、到着を知る。決然と歩き出した彼女は暗闇の中を見通すことはできないが、この先に現れるはずの存在の気配を察そうと、持てる感覚を総動員しながら歩く。今回彼女らが実践している『スクエア』と呼ばれる都市伝説では、大学生の五人組が雪山で遭難し、一人の仲間を失う。残された四人は山小屋にたどり着く。夜を明かすべく、四角形の部屋の四隅に分かれ、一人が一辺を壁に沿って這っていき、角に突き当たればそこにいる者を起こし、起こされた者が次の角へ向かって這っていくことにする。これでぐるぐると互いを起こしながら夜を明かすのだが、この四角形の動きは、実は五人目がいなければ成立しない。そう、死んだ五人目が参加して仲間を助けていたのだ――という怪談である。実はこの怪談の原型、「暗闇の部屋に四人でいると、五人目が出現する」という怪異は古くは江戸時代から記録されている。暗闇の座敷の四隅に一人ずつ立ち、部屋の中央までやってきて互いの頭を確認すると五つあるという『隅の婆様』。同じく互いの膝を数えて名を確認していくと黙って座っているだけの五人目がいるという『膝摩り』。だが現代では、暗闇の座敷などそうそう存在しない。そこで雪山で遭難した山小屋という極限状態に頼るしかなくなったのが『スクエア』であった。さらに最近では誰もがスマホくらい持っている。暗闇を得るのは状況設定としてさらに難しくなった。故に、このような実験的な状況を催してもらわなければ、彼女は現れることができなかった。地下室の黴臭い冷気を鼻から深く吸い、一歩一歩を味わうように踏みしめる。内から湧き上がる生の喜びとでもいうべきものを満面に表すが、だれにもそれは見えていない。やがて隅にたどり着いた彼女は、名残惜しそうに周りを見渡して深呼吸してから、うずくまっている相手をゆっくりと揺り起こす。声は出さずに。親愛と感謝を込めて。

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『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の練習問題⑧

「問一:三人称限定視点を素早く切り替えること。六〇〇~一二〇〇文字の短い語り。(中略)同じ活動や出来事の関係者が数人必要。複数の様々な視点人物(語り手含む)を用いて三人称限定で、進行中に切り替えながら物語を綴ること。空白行の挿入、セクション開始時に括弧入りの名前を付すなど好きな手法を使って、切り替え時に目印を付けること。

問二:薄氷

六〇〇~二〇〇〇文字で、あえて読者に対する明確な目印なく、視点人物のPOVを数回切り替えながら、さきほどと同じ物語か同種の新しい物語を書くこと。(後略)」

への回答です。

 ル=グウィン先生の出題意図がどこにあったのかはあんまりわからなかったのですが、まあわからなかったからこそ、課題設定を題材として取り込んだ話にしてやろうと思って、しました。結構よく書けたと思うので自分では好きです。

 以下、参考資料。

スクエア (都市伝説) – Wikipedia

隅の婆様 – Wikipedia

泉鏡花 一寸怪 (aozora.gr.jp)

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