『文体の舵をとれ』練習問題(7-1)

【問一(三人称限定視点)①】

 香織が湯に身体を浸すと、熱が染みた。全身の力が抜け、思わず声が出そうになって、けれども出てきたのは長い吐息だけだった。

 夜闇に立つ湯気の中、手を伸ばせば届く距離で、燈花は目を閉じている。いつも通り涼しい顔だけれど、まとめられた髪、濡れ火照った頬と剥き出しの額が香織には新鮮だった。

 一灯点いた明かりに羽虫が集まっている。湯船の水音は静かで、二人が無言でいれば音は一切なかった。月のない夜。露天風呂が望む景色も、墨を落とした闇の黙の中。

 変な宿だけど、お風呂は良いね、と燈花に声を掛けようとしたその瞬間、けれども香織はそれに気づいた。

 ひたり。

 濡れた重い足音がする。

 ひたり。

 気配を感じ振り向けば、上がり場に誰かいる。慌てて向き直る。ひたり。ひたり。つんと酸い臭いが纏わる。背筋がぞっと寒い。燈花と目が合う。何かを考えている。香織は声が出せない。

 ばちゃん、と小さな水音を立て、湯船に滑り込んでくる影。明かりを背負って立つのは黒々と人間離れした巨体。ぎょろり動いた赤目。香織は怖気からの痺れか、身体が動かない。ざぶん、と一歩こちらに踏み出す異形に、叫ぼうとしても喉から空気が漏れるだけ、助けを求めて、出ない言葉が内に内に反響して喘ぐばかり。

 沈黙の瞬間を切り裂いたのは水面を激しく叩く音だった。怪異の背後にごうと湧き上がった飛沫に黒い巨体はびくりと震え、弾かれたように湯から上がったかと思うと、ビタビタと闇の中へ逃げていく。ああ、音が苦手なのか、と香織はぼんやり考える。

 湯から顔を出した燈花は、顔だけ燈花に戻って、身体は巨大な黒のまま。燈花の咄嗟の機転に助けられ安堵しながら、けれどそのアンバランスでグロテスクな見た目に香織は噴き出しそうになるが、やっぱり声は出せなくて、黙って苦笑するほかなかった。

【問一(三人称限定視点)②】

 燈花が湯に身体を浸すと、心地よさが染みこんでくると共に、内心の警戒信号がぽッと点いた。普通のお湯ではないですね、と香織に言おうとするが、声が出ない。なるほどそういう効能、と呟くが、それも声にならない。沈黙の中、微かな水音と共に香織が湯に浸かる。気持ちよさそうに身体を伸ばして息を吐くが、言葉はない。もっとも、香織は単に良いお湯だとしか思っていなさそうですが。

 燈花は思い返す。宿の主人、やけに声が小さな人でした。香織の携帯電話が鳴ったときには顔を顰め、館内ではお静かに、と囁いて……。

 燈花が考えたそのとき、上がり場の奥から、ひたひた、ひたひたと足音がする。近づくにつれ、どうやら香織も感づいたらしく目が合う。香織の困ったような黒い瞳を眺めながら、燈花はいかにこの場を切り抜けるかを考える。声は出せない。助けは呼べない。それがこの湯の使い道なのだろう。この湯殿は袋小路で、地の利はあちら、逃げるのも難しい。燈花も香織も丸腰、武器はない。残る手段は燈花の変化……しかし何に化ければよいのでしょう、と燈花は考える。例えば何か、あの怪異の、おそらくは人食いの恐れるものに。でもそれは、何なのか。湯の熱さで頭が回らない。

 黒々した巨体が燈花と香織の間に滑り込んでくる。ちゃぶり、と小さな水音だけで割って入る影が背を向ける。だめです、と燈花は立ち上がる。香織に手を出すな。咄嗟に燈花が選んだのは目の前の怪異と同じ黒い巨体に化けること。今すぐ化けやすいできるだけ大きな身体になって、そのまま両手を広げ一息に湯船へ倒れ込んだ。

 どぼん、ばしゃん、と大きな音を立て、湯に沈む。水中で世界が遠ざかり、もがいている間に怪異は慌ただしく水を跳ねさせ逃げ去ったようだった。

 湯から顔を出した燈花は、相変わらず声が出せないので、にっこりと香織に笑いかけてやる。

 * * *

『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の練習問題⑦

「400〜700文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。なんでも好きなものでいいが、〈複数の人間が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。(中略)

問一

①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、こども、ネコ、なんでもいい。三人称限定視点を用いよう。

②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。」

への回答です。

 上記問題文が長いので省略しましたが、会話はほとんど含めてはいけないというレギュレーションになっています。でも僕は会話が好きなので会話を書かないというのは違和感があり、会話を書かなくて済む設定を考えて話にしました。

 三人称限定視点の限定先のキャラクターによる見えている範囲の差、状況への認識/対処のレベルの差、そもそも性格の違い、が出せるように書き分けを狙いました。合評会でいただけた反応からは、この点に関しては概ね狙った効果が出せていたように思います。

 今回ちょっと準備時間が取れず、キャラクターは既存作品から再登場願いました。この出し方だと燈花が変身出来るのは唐突感でるからダメと感じる読者もいそうだなという自覚がありましたが、まあそれも面白いかなくらいのぶん投げで投げ込んだところ、唐突感あったという感想もあれば、まあ受け入れられたという感想もあったので、概ね事前の想像通りであり、事前に想像できたリスクはちゃんとケアしないとダメだと思いました。

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