稲垣美晴『フィンランド語は猫の言葉』の感想です。
渡芬、トフン。なんとかぐわしいこの響き!
芸大の学生だった筆者の稲垣美晴さんは、フィンランドの美術史で卒論を書くために1970年代末にフィンランドへ留学。70年代というと、当然ながらインターネットなんて無いし、そもそもフィンランドなどという国自体が日本であまり知られていません。日本語で書かれたフィンランド語の学習書は1冊しか出版されていなかったとか。確かに今でこそフィンランドが北欧の国であることくらいは一般に知られていますし、ムーミンのイメージくらいはありますが、北欧三国の位置関係がわからん、なんていうのはしばしばネタにされますし、北欧三国とそれらの首都の組み合わせに至っては正しく答えられない人もまだまだ多そうです。(まあエイラのイメージくらいなら……)
この本は、そんな今であれば無謀と言われてしまいそうな留学をした筆者のエッセイです。タイトルにもある通り、フィンランド語という言語にスポットをあてている部分もありますが、基本的には紀行文、留学体験記として読めるものです。フィンランドという土地や言語についてほとんど知らない状態から知識が得られ、また筆者の強い精神力とユーモアに感心させられて、とても楽しく読みました。
異文化で素直に努力する
学生寮の隣人がタルヤ・サルコヤルヴィとヴェサ・リンタマキでその名前が既に覚えられないのに、KHTがケスクスカウッパカマリン・ヒュヴァクシュマ・ティリンタルカスタヤの略だということを暗記して初めての試験に臨んだり、授業で課題を始めようにも黒板が解読できなかったりと、筆者は相当苦労しながら勉強をしたようです。本人が「絶望的」と書いている通り、おそらく塞ぎこむこともあったのでしょうが、ユーモラスな語り口からは暗い様子は全く伝わって来ません。
頭痛がするほど寒いフィンランドで、「体感でマイナス何度か当てる」という遊びを開発し、「息を吸った時の鼻の感じがこういうときはマイナス十五度」、だなんて僕たちからは信じられない世界です。マイナス三十度に達すると友人に「命がけで外を歩いています」と手紙を書いたりなど、相当な精神力を感じさせます。一方で、じゃがいも(「フィンランドで一番おいしいものは?」と聞かれるとフィンランド人はじゃがいもと答えるらしい。曰く「じゃがいもが多ければ多いほど、スープはおいしい」)に対する感情を題材に海外への適応の時間的経過を分析していたりと、一般化した異文化適応のプロセスを考えるのにも興味深い本になっています。自分はそういう環境に長期間置かれたことは無いけれども、もしそういう場に置かれたら自分はどうなるのだろうか、と考えてしまいます。留学の予定はありませんが……。
あとがきで筆者は、かつての自分が勉強を続けられた理由について、フィンランドの環境や人々に素直さを引き出してもらえたからだと書いています。試験に失敗してもひねくれてしまうことなく、「また努力して、次もがんばろう。だって、これは私にとって大事なことなのだから」と思えたから、がんばれたのだといいます。こう言われると、まさにその通りと思えてきます。おそらく「素直に努力するのが大切です」とだけ言われるとなんとも思わない、むしろ胡散臭い正論いいやがって、となるのですが、このエッセイを読み終えたあとの「あとがき」であれば率直に納得できるのです。
フィンランド語について解説をしている部分もあります。まず単語が長い。そして文法が日本人からすると複雑で、格が15もある。名詞も格変化する。否定にもいくつも種類があるので、英語の”No”みたいないつでも使えるものがない……。ちょっと勉強しようとは思えませんね。けれど筆者は「ゲームのように楽しい」と言います。そしてタイトルにもある通り、筆者はフィンランド語を猫の言葉だと言います。
フィンランド人はニーン、ニーンと言うけれど、私には猫の言葉に聞こえるから。(注 ニーン、ニーンとは、フィンランド語で相槌を打つときに言う言葉だが、話している時に相手がただ「ニーン、ニーン、ニーン、ニーン」と言うと、私はなんだか猫と話しているような気がしてくる。あるとき、電話をかけたら相手がいきなり「ニーン」と出てきた。これには驚いた。一瞬、猫が電話に出てきたかと思った。やっぱりフィンランド語は猫の言葉なのだ)
ニーン、ニーンが聞きたくて
こうなると気になってくるので、僕も生のフィンランド語を聞いてみることにしました。というのは順序が逆転していて、本当はフィンランド語を聞くチャンスが巡ってきたためにこの本を手にとったのでした。先日、フィンランド航空を利用して、ヘルシンキ空港に立ち寄る機会があり、入国して観光する時間はないものの、生フィンランド語に触れる機会はあるはず、と思ったのです。
成田・ヘルシンキ便の機内アナウンスは、フィンランド語、日本語、英語です。しかしフィンランド語、何を言っているかわからない! あたりまえです。母音が多くて丸っこい。アクセントが常に語頭なので(というのは知識として知っているから判ったのであって音だけ聞いたらわからなかっただろうけど)平らな感じがする。本当に、猫が(といっても可愛らしくて甲高い声の仔猫じゃなくて、まるまる大きな感じの猫が)喋っている様子をイメージできなくもない。一つだけ聞き取れた単語は、一番最後のKiitos(ありがとう)。
フィンランド航空のCAにしても、ヘルシンキ空港で働く人々にしても、基本的に英語で話しているので、別にフィンランド語が一言もわからなくても一切問題はありません。しかしアナウンスを聞いていると全く何を言っているかわからないけれど耳に心地いい言葉が聞こえるので楽しくなってきます。母音が多く、日本人は比較的フィンランド語の音に馴染みやすいので、フィンランド語を聞くとなんだかデタラメな言葉に聞こえる、と筆者が書いていたけれど、まさにそんな感じ。ただ英語にもフィン訛りというのはあるようで、空港の売店の店員のお姉さんの言葉を聞いているとThreeがTreeになっていたりしました。まあ、日本人英語が人のこといえませんけど。支払いを終えてThank youと言われたのでKiitosと返してみたら、笑顔でKiitos!と言ってもらえました。やったね! ニーン、を聞くチャンスはなかったけれど、フィンランド語は猫の言葉でした。よく考えると相槌の言葉なんだったら、こっちがフィンランド語である程度の文章を喋らないと相手は使ってくれませんよね……。フィンランド語を勉強することは無いでしょうが、いつかちゃんと観光してみたいと思います。