【感想】すずめの戸締まり

 ネタバレが含まれる
 やっと今日映画館で見てきた感想であり、小説版とかインタビューとかは読んでないから、解釈は的外れかもしれない。

「天気の子」が、国民的アニメ監督の地位を与えられた新海誠がその枠に収まらず暴れ回る話だったとするならば、本作は新海誠の国民的アニメ監督の襲名披露公演か戴冠式かなにかなのではないか。誠、ひょっとして総理大臣とか征夷大将軍とかを目指しているのか?

 あまり映画とかで泣いたりとかしないんですけど、終盤普通に泣いてしまった。

 強い表現であることは間違いなく、でも強い表現であることはそれだけでは名作かというと違うところはあるはず。なんかあら探ししたら、たとえば前半駆け足すぎてすずめのセットアップ弱くねとか、左大臣なんやねんとか、そういう細かいとこは言うことあると思う。また大本のところにしても、見る人によっては、たとえば、あの時は生きたのだけれど十二年経って「ちゃんと大きくなれ」なかった人もいたはずで、とか。でも前者に関しては全体からしたらそんなに気にならないでしょと言えば、うん、ならないし、後者に関しては、ここまでこの題材をやったら仕方ない批判の余地がどうやったって出ることは、作っている側も百も承知、覚悟しているのだろうなと思う。

 思うに、この作品はすずめが喪失やトラウマを乗り越える、癒やされるといった作品……とは少し違う。そうしなかったことに国民的アニメ監督としてのパワーを感じる。たとえば、映画の作中では明確にされていないが(だから小説版で普通に違うこと書いてあったらこけるのだが)、すずめの母はおそらく行方不明なのであり、それは法律上は死であるし、すずめにしても生きていると思っているわけではないけれど、でも、それは明確な死とはすこし違うもので、それも含めて、十二年経ったからなにか終わったとか区切りがついたとかそういうものではない。すずめが母の死を引きずっているとか囚われているとかいうのとは違う。むしろすずめはしっかりと大人になりつつあり、明るく過ごしているのだけれど、でも一方で、多分何年経っても、”それ”には区切りがついたり、終わったりということはないのである。常世には時間がなく、過去から未来までが同一の世界にあって、だから十二年前の悲しみや苦しみは、あのときの瓦礫や炎の姿でいま現在のものとしてそこにある。十二年前のすずめが死者の国である常世で母親と出会った「のではない」ことも、そのひとつであるし、現在のすずめも旅をして母ともう一度だけ会えた「のではない」。代わりに現在のすずめは十二年前の自分と再会することであのときの悲しみに再会するのだけれど、そのときに言えることは、「ちゃんと大きくなれる」、それだけ。それしか言えないし、それが一番であるというのが、この十二年だったということだと思う。

 行使できたファンタジックな力は、本来は母と同じく津波に流されたのであろう、母の形見である椅子を渡して輪を繋いでやるだけ(終わってから考えるに露骨なタイムループアイテム枠なのだが、あのシーンみてるときは泣いててそれどころではなかった)。でも椅子のなくなった脚の一本が戻る話でもない。そういうことだと思った。

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