タイムバタフライ

 ガガガガガ、と凄まじい音を立てて、巨大な円環が回転を始めた。ヒュンヒュンヒュン、と、空気を切り裂く音がだんだん高く速くなってゆく。チタンコートのリングは直径10メートル。中心にはスチールチェアがぽつんと置かれている。八方からの光線で、その背もたれはメタリックシルバーからクロムグリーンへ。

「あの椅子に座ってこの装置を動かす」

 白衣の男が説明する。

「臨界点を突破すると、椅子の上の生命は過去へ転送される」

 男が電話帳のようなものを僕に半ば投げつける。

「それに基礎理論は書いてあるから君も読めばわかる」

 数式なんて見たくもない。

「ただしさっきも言った通り問題がある」

 そう、人間のような体積と質量をもった生命はうまく過去座標で凝固できず、蒸発する。

「そこでこれが役に立つ」

 男が第二のパネルのボタンを押す。今やカドミウムオレンジに輝くスチールチェアの上方から、やや小ぶりの第二の円環が降下してくる。人間の座高より少し高い空中で、天使の輪は静止する。

 キキキキキ、と不気味な音を立てて、第二の円環も回転を始める。パチパチパチ、と、ターキーレッドのリングから火花が散る。

「あれで転送対象を蝶に縮小、リビルダブルなサイズにする」

 男が投げつけた第二の電話帳を僕はかわす。

「その基礎理論は難しいから君には無理だ」

 男は白衣のポケットからウルトラマリンブルーのハンカチを取り出し額の汗をぬぐう。

「……本当に行くのか?」

 今日初めて親友と見つめあう。轟音を立てる第一のリングが10回転。僕はうなずく。


 決行は三日後。僕は施設を後にして、歩く。

 夕暮れの川沿いに伸びていく小道。早くも足元を照らして進む自転車。苦しそうに走る中年男。鞄で羽ばたく小学生。鯉と菓子を分けあう少女。見つめる白鷺。流れる川面。高架を叩いて去る電車。夕日に浸る栗の木を揺らす風。水田で大勢騒いでいる雨蛙。仄明るい雲の合間で少しずつ輝きを増し始めた宵の明星。

 自分の現在と未来を捨て、蝶になってまで過去に行く。一体、蝶で何ができる。羽ばたくことができる。羽ばたいただけでは何も変えられない。……と、誰が言い切れる。証明好きの悪魔はカオス理論をどう考える。

 残照の銀朱の中、一羽の大きな紋白蝶が、どこからかひらひらと飛んできた。

「時をかける蝶々、か」

 傾く日の中で必死に宙を漂う魂に、僕は問う。それで君は、そんなに一生懸命に羽ばたいているのかい。


* * *


 短編第79期(2009年4月)投稿。

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