幸福は一夜おくれて来る。ぼんやり、そんな言葉を思い出す。幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。幸福は一夜おくれて来る。幸福は、――
太宰治『女生徒』
さ・れる
[動ラ下一][文]さ・る[ラ下二]《動詞「する」の未然形+助動詞「れる」から》
小学館『デジタル大辞泉』Weblio辞書 2025年9月12日参照
1 「する」の尊敬の意を表す語。「先生が旅行を―・れるそうだ」
2 「する」の受身の意を表す語。「子供にいたずらを―・れる」
2022年、笹帽子名義で書いた短編小説「幸福は三夜おくれて」を、SF書評家の橋本輝幸さんが主宰する『Rikka Zine Vol.1 Shipping』に掲載いただくという、大変光栄な機会に恵まれました。
さらに『Rikka Zine Vol.1 Shipping』の英語版には、BurntendsさんとTerrie Hashimotoさんの共訳による英訳 Happiness Comes Three Nights Later を掲載いただきました。
そしてさらに! 2025年には中国のSF誌『銀河辺縁』024号に、SF作家・翻訳家の木海さんによる翻訳で簡体字版《幸福迟到了三晚》を掲載いただきます!
こんなありがたいことがあってよいのでしょうか。
この記事は、拙作を翻訳していただくにあたり考えたことについて書いています。作品の内容にも言及するので、興味を持っていただけた方は、よろしければぜひ作品も読んでみてください。『Rikka Zine Vol.1 Shipping』の電子書籍版は、すぐに購入できます。
さて、日本語というのは奥深いものです。
「幸福は三夜おくれて」を校了したくらいだったと思います。突然、橋本輝幸さんからdiscordのメッセージで「自作を英訳されてみる気はありますか」と問われた私は、「される」を尊敬と誤読し、いや、自分が英訳なんかできるわけないでしょう……え、無理だよな、さすがにそんなすごいボールがいきなりは飛んでこないですよね、いや英語に訳することはできるかもしれないけどそれが小説として成立するのは……いや興味はあるけどいきなりそんな……とひとしきりフリーズしたあとに、どうもその後に続く文章全体を読むと「される」が受身であるらしいことに気づきました。
日本語すら難しい。況んや。
『Rikka Zine』が日英バイリンガルZineであることは理解していたのに、原稿を応募したときには作品が翻訳されるかもしれないということをあまり意識できていませんでした。意識が低すぎる。だから、翻訳していただけるという大変ありがたい機会をいただいて初めて、そもそも翻訳とは、というレベルで様々なことを考えることになりました。
翻訳作業を進めていただく中で、橋本さんからは丁寧な確認をいくつかいただきました。特に難しいなと思ったポイントが二つあり、ここに書き残しておきたいと思います。
まずは、固有名詞、なかでも人名について。
本作のメインキャラクター、「リスト」と「ピピ」の二人の名前の英語表記(スペル)を私は事前に設定していませんでした。カタカナの音のイメージから名づけていて、ふんわりと特定の国籍・民族・宗教が(少なくとも日本語話者に)強く想起されなさそうなもので、というくらいの意識だけでした。ちなみに作中舞台がどこの国であるかについても設定していません。ヒューストンで乗り換えた、というところだけは実在地名ですが、まあ、国内線に乗り換えることも国際線に乗り換えることもできるはずだ。
さて、スペルを決めようと思うと、この綴りだと何系の名前で実在する、しない、とか、この後の三人称代名詞問題にも絡むのですが、このスペルの名前だと普通は男性っぽい、女性っぽいなど……ざっくりカタカナ名前とは違った考慮要素が入ってきます。よくある類似の問題として、「ノエル」が日本の創作物だとしばしば女性名として使われるのだが、元のフランス語では基本的に男性名である、とかがありますよね。
こういうことは多分、一応現実世界を舞台にしている以上はちゃんと事前にリサーチした方が良いんだろうなと思いました。今回は、橋本さんに確認をいただいた際に初めて全く何も考えていないことに気づき、悩みつつも私としてはこうかなという考えをお伝えさせていただきました。
もうひとつは、三人称代名詞の問題。これは私の事前の考慮漏れというのを超えて、言語の特性の差と翻訳というものの難しさを意識させられました。
いまさら言うまでもなく、日本語は三人称代名詞の自由度が高いし、そもそも主語である場合にすら省略が可能です。本作において「リスト」「ピピ」は基本的にそのまま名前で呼ばれていて、「彼」や「彼女」は使っていません。そのことは、読者には伝わったり伝わらなかったりするでしょうが(伝わっていればそれは嬉しいし、意識されることがなければ、それもまた嬉しいです)、日本語として不自然というわけではないでしょう。多分。
一方で、英語で三人称代名詞を使わないというのは、普通にやると不自然です。Lysto is… Lysto did… などと名前を何度も繰り返すのは、不自然、稚拙な文章という印象になるようです。私も肌感覚というわけではなくて、知識として知っているということですが。しかしそこでLystoを三人称代名詞に置き換えようとすると、それがheなのか、sheなのか、あるいはtheyなどその他の選択肢なのか、選ばなければならなくなってしまう。それを避けようにも、日本語のような主語の省略は、英語では難しい。
悩ましい問題です。そもそも日本語では記載していない情報が英訳時にテキスト上に出現する、英訳時に追加情報として必要になる、という状況に対する戸惑いのような感覚がありました。情報が等価な翻訳など原理的にあり得ないということは頭ではわかっていても、実際に覗き込むと底知れない深みのように思えました。
「古池や蛙飛びこむ水の音」を英訳するとき、蛙とはa frogなのかfrogsなのか、という話は有名です。小泉八雲がどちらにするか悩んだかどうかは知りませんが、しかし、最終的にはどちらかに決めなければ訳せなかった。それはもしかすると悩みに悩んだ末の乾坤一擲、正にジャンプだったのかもしれない。
今回の場合は、それが蛙の単複ではなく、メインキャラクターの三人称代名詞の性別だったわけです。性別というのは、この作品のポイントの一つである家族観にも少なからず関係のあるところです。それをsheかheか決めなければ英訳はできないかもしれない。あるいは、たとえばtheyを使うという選択肢もあり得ます。しかし、言い方が難しいのですが、それはそれで読者の意識を引くのではないか、日本語で主語が省略されたり名前が繰り返し記載されたりするのとは質感がかなり異なるのではないか、と私は思いました。でも、だからといって、無理な言い換えや省略で英語としてリーダビリティが損なわれるのもまた、本意ではありません。本作は日本語では平易で読みやすくというのを心がけました。ですので英訳していただくにあたり、私が英語の特性上難しいことをリクエストしてしまうというのも良くないのではないか。……いや、というかそもそも、今回は橋本さんから話題に挙げていただいたのだとはいえ、翻訳に対して元の作者である自分は本来どこまでコメントしたり希望を言ったりするべきなのか。言葉を挟むべきではないのではないか。では沈黙すべきなのだろうか? いやいやそれも無責任ではないか? このあたりをぐるぐると悩んでいました。最終的には、日本語では示していない情報ではあるが、とはいえ不自然すぎる文章になるのは本意ではないので、私が使うとしたら、ということで私の考える二人の三人称代名詞を橋本さんにはお伝えだけさせていただき、その後の判断はおまかせさせていただきました。
そうしてBurntendsさんと橋本さんに完成いただいた英訳を拝見して……感動しました。どうなっているかは、英語が読める方はぜひ『Rikka Zine Vol.1 Shipping』英語版を読んでいただければと思うのですが(露骨な宣伝)、翻訳難しい、そもそも翻訳って何、言語とは、小説とは……とか悩んでいたのを吹き飛ばされた気持ちがして、これもある種の「大丈夫にされてしまった」現象かもしれない。そしてもちろん、英語圏の方にも作品を読んでいただける機会ができたのは本当に嬉しく、エキサイティングです!
このような機会をいただき本当にありがたく思っております。私の作品も含め、『Rikka Zine』英語版が世界の多くの人に届くことを願っています! また、Vol.2以降の継続も楽しみに応援しております!!
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……と、ここまでの文章は、実は2022年に英訳版までの時点で書いて、保存してあったものでした。
しかしそこから追加の展開があったのです(というか、追加の展開がありそうだったので、そのときに公開せずに保存してあったのでした)。
なんと、「幸福は三夜おくれて」を、中国のSF作家・翻訳家の木海さん(『Rikka Zine Vol.1 Shipping』に「保護区」が掲載)に、中国語訳していただきました! ありがとうございます!
木海さんは『Rikka Zine』の掲載作のみならず日本のSFの紹介や翻訳に精力的に取り組まれていて、『銀河辺縁』の「日本SF招待席」などで精力的に活動されています。
こんなに嬉しいことがあって良いんでしょうか? 私の作品が三ヶ国語になっています。
こちらの翻訳に関しては、基本的に木海さんの読解に基づいて中国語訳をしていただいています。それがどれだけ偉大な跳躍であるか、もう私は知っていて、尊敬の念しかありません。しかしこの二つ目の翻訳を経験すると、本稿の前半に書いた英訳していただいたときの私の感想は、まだまだ一面的であることに気づかされるのです。井戸の外、大海どころか多元宇宙。
たとえばスペルの問題について。元がカタカナの名前を中国語に訳すには、日本で言うところの「当て字」的に漢字を使うことになります。おそらく英語の有名な名前は定番の当て方が確立されているのでしょうが、今回の私の作品での二人はきっとそういうわけではないでしょう。簡体字版では、リストは利斯特、ピピは皮皮と訳していただいています。
英語のスペルについて事前に調べたり決めたりするべきなのかもしれないと書きましたけれど、じゃあ中国語の漢字も考慮した方がいいのでしょうか? まあ、本作は明示はされていないものの英語圏である可能性がそれなりにあるように思えるし、二人の母語が英語でなかったとしてもインド・ヨーロッパ語族である蓋然性は高いであろうと考えてよさそうです。ならば、英語でのスペルを優先して考慮すべきであるという理屈は立ちます。立つんですが、いやそれって正直、後付けの理屈ですよね。この文章の前半部を自分が書いた時点の頭の中としては、やっぱり世界における英語の特権的地位に意識がもってかれてなかったか、というのは振り返ると思うところです。つまり、日本語で小説を書くときに、翻訳可能性を意識したほうがいいのかも、みたいなことを一瞬でも考えるとしたら(まあ多分考えなくていいんだけどね)、その翻訳可能性の翻訳って英訳を意図している可能性が(もしかすると不当に?)高いのではないかというか……なんかそういうことです。
また、三人称代名詞の問題は、これは私の中国語の知識が足りないのであまり細かいことは分かっていませんが、この点に関しては中国語は日本語よりは英語に事情が近い……のかな。三人称代名詞の「彼」は「他」、「彼女」は「她」。面白いのは漢字は違うけど発音したら音は同じになるそうです。というか、歴史的には全部「他」だったものが、英語のsheを訳し分けるために書き言葉に「她」を導入したというのが歴史的順序であるらしく、それはなんだか皮肉な話なのかもしれません。故に近年、ジェンダーニュートラルな代名詞としてTAと書くこともあるそうです(そもそも発音では区別がつかず、書き言葉の世界でだけ性別が区別されているところ、書き言葉の世界でも発音を書いてしまうということ)。
中国語訳での三人称の使われ方は、訳者の木海さんの読みに拠っています。こちらにしても、前述の英語の三人称代名詞の下りのところで、原作者が翻訳に対してコメントしたほうがいいのかどうなのか、みたいなことを書きましたが、それも(直接的には橋本さんと話をする機会があったからですけれど、根本的には)私が英語ならば一応わかり、色々先回りして考えたから生じた悩みなわけです。単数theyのごく基本的な知識を持っていたから、いやそもそもheとsheという単語を知っているから悩めるわけです。それに対して中国語は私があまりわからないから(一つ上のパラグラフは今この文章を書くときに調べました)、そういうことを考える能力がそもそもないので、木海さんに何かをお伝えするような立場にありません。そもそも「素晴らしい翻訳をありがとうございます」と言うことも、ある意味では難しい。読めていないのだから。(念のためですが、私は木海さんの翻訳と紹介に感謝しているだけでなく、木海さんが素晴らしい翻訳をして下さっていることを確信しています。しかし、中国語簡体字版の原稿を読解してそう思ったのか、と問われれば、そうとは言えません)
とはいえ中国語って、漢字を使うし、一応学校で漢文を習ったし、世に数多ある外国語の中では相対的には自分でも素養がある側に入る言語です(我中国語完全理解)。翻訳していただいたものを眺めて、なんとなくこう書いてあるなというのはわかります(お前が書いた物語だろ)。そうではなくて、もしかしてもっと完全に知らない言語への翻訳という話があったとしたら、それはもう完全に何も見えないことになる。出来上がった英訳版を読んで感動したと書いたけれど、それは一応英語が読めるからで、たとえばXXX語(全然知らない言語とする)への翻訳をしていただいたとして、それは翻訳されたという事実自体はきっと感動するんだけど、訳文を自分では読めないので、きっと感覚は違う。ということが、別に自分だけでなく、世界中の非母語英語話者にとって起きていて、英語を中心とするスター型の関係性が多分あって、それは否応なく不均衡なもので……と思うと、いや翻訳ってやっぱり……難しい! 悩ましくて面白い! と思ったのでした。
これだけ色々なことを考える機会をいただけて、自分の世界が広がったのはとても嬉しいことでした。翻訳されてみてよかった。このような貴重な経験が出来たことに感謝しつつ、英語版も中国語簡体字版も、世界中どこへでも、一二三光年先にでも、たくさんの方に届いたらいいなと思います!
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この記事は「小説についてのエッセイ」でした。逆に(逆に?)私が書いた「エッセイについての小説」が、文芸同人・ねじれ双角錐群の新刊に掲載され、文学フリマ東京41にて販売される予定です。タイトルは、「なぜ清少納言はハルシネーションを起こさなかったか」です。なぜなのでしょうか? 2025年11月23日(日) 東京ビッグサイトで要チェックだ!!
