『文体の舵をとれ』練習問題(9-2)

①(人物)

 インターホンのベルが鳴る。画面の中に二人の女が立っている。

 五年前に大学への近さだけで選ばれた築三十年、1K二〇平米、三階、バス・トイレ別、月7万円の部屋は彼女の入居前に一通りリフォームされて、内装には築年数を感じさせない清潔さがあった。鳴り響いてLEDを点滅させているカメラ付きインターホンもそのときについたが、もちろんオートロックのついているような物件ではないので、映しているのは部屋の玄関前だった。

 玄関前の二人は何度かインターホンを鳴らした末、一人が溜息をついて鍵を取り出す。うわ合鍵持ってるよ、いや押しつけられたんですよ、まったく隅に置けませんね、などと言葉を交わしながら二人が這入ってくる。合鍵を持っていた方は当然部屋の内情を知っているから、彼女の名を呼ばわりつつ、手際よく廊下の照明を灯してざぶりざぶりとかき分けて進み入る。もう一人の方は呆けたように三和土に立ち尽くし、これ床大丈夫か、と言った。

 間取り図の上ではキッチン扱い、実質的には廊下であるその空間は、本で埋められていた。大学の研究室にありそうなスチールラック(実際、彼女は研究室にあったものの型番を聞いて同じものを注文した)が二台連結され、最高効率で本を収めるべく棚板が七段入って、各段に奥と手前の二列で本が収まっている。もちろんそれで終わらず、本の奔流は床に広がって積み上げられ、その縦積みが時に拉ぎ、互いに凭れ、波打ち、相交わり、また分かたれて立ち上る。キッチンはスチールラックに阻まれて完全にアクセス不能であり、調理どころか収納の開き戸すら開けられないが、見れば誰しもあの中にも本が詰まっているに違いないと思うだろう。これだけ乱雑に積みながらも本を踏むことは許さないらしく、いわゆるゴミ屋敷とは違って床は見えている。見えてはいるが、その細く曲がりくねった筆致はさながら愛書狂の獣道。そこを通る二人の首筋のあたりを、あの忘れがたく艶やかに滴る香りが駆ける。ホトトギスが一声鳴いて木立を飛び去るように、一瞬だけ。初めて訪れた者にも、間違いなくここが彼女の部屋であると知れる。夏が近かった。

 隘路を抜けて居室に至る。あとからついてきた方が、これだけ古今東西の本があって見事に全部小説しかない、と感心して言う。けれど床って本当に抜けますよ私学生時代に蔵書と同人誌の在庫を木造アパートに迎え入れたことがあったのですが、と急に早口に語り出したところへ、合鍵を持っていた方が紙コップに紅茶を入れて差し出した。その紅茶のペットボトルは未開封のまま、本に囲まれた机に放置されていた。この書室の主が読書なり執筆なりを再開したなら邪魔になったはず。どけられてはいなかった。あの日以来、そのままになっていた。紅茶の人工的な香りが鼻につく。彼女の香りを忘れずにいたいのに。

②(出来事)

 午前一時を過ぎていた。大きなスーツケースが二つトランクに収まり、後部座席に東洋人の女二人が乗り込む。運転手の浅黒い肌の男がちらと目をやると、女達は二人とも疲れ切った顔をしている。フライトの遅れか、と助手席の男に尋ねる。一時間だけだと男。だったら何で俺は三時間も待たされていたんだと運転手は内心むっとするが、口には出さない。女二人は疲れているし、ポルトガル語は全くわからないので二人の会話には反応を見せない。だがわからないふりをしているだけかもしれないと運転手は思った。見た目だけなら世間知らずの観光客のようだが、得体の知れない客だ。てっきりもっと偉そうか、金持ちそうなのが乗るのだと思っていた。運転手は既にこの仕事を受けたのを後悔し始めていた。

 車は低い唸りを上げながら空港を出て幹線道路へ向かう。ランプの登り坂で車体が重い。強化ガラスに加えてボディに10mmの鉄板が仕込まれた重装の防弾防爆車は通常車両より1トン以上重く、男が普段運転しているちょっとした拳銃を防げる程度の防弾車とは一回りも二回りも違う。前の車についていくため、運転手の男は歯を食いしばってアクセルを踏み込む。後ろからもぴったりと同型のSUVが着いてくる。車内はカーラジオが延々とチャート曲をループしていて、待機中からもう何周目だかわからない。あっという間に終わってしまう幹線道路から折れ、車列は片側一車線道路に降りる。貧民街に入ると街灯の間隔が一気に薄くなり、夜霧にテールランプが滲んだ。メイレーレスのホテルへ向かうというのにわざわざこんな危険なルートを指定されるのは馬鹿げていると運転手だけが焦っていた。助手席の男はそんなことを気にするのはとうにやめている。作戦指示に従う以外のことを考える必要はなかった。後部座席の女二人は今や船を漕いでいる。ラジオではミシェル・テロが歌っている。ああ、ああ、それが君が僕を殺すやりかたなんだね。

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『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の練習問題⑨

「問三:ほのめかし

この問題のどちらも、描写文が四〇〇~一二〇〇文字が必要である。双方とも、声は潜入型作者か遠隔型作者のいずれかを用いる事。視点人物はなし。

①直接触れずに人物描写――ある人物の描写を、その人物が住んだりよく訪れたりしている場所の描写を用いて行うこと。(中略)(その登場人物はそのとき不在であること)

②語らずに出来事描写――何らかの出来事・行為の雰囲気と性質のほのめかしを、それらが起こった(またはこれから起こる)場所の描写を用いて行うこと。(中略)(その出来事・行為は作品内では起こらないこと)」

への回答です。

 今回はいつも参加させていただいている合評会に諸事情で参加出来なかったので、事後に自習で回答を作りました。なので自分の感想だけ。

 ①は、不在の部屋の主というよりやってきた二人のキャラの方が目立ってる気がしてそれは趣旨が違うのでは?という感じもしつつ、まあ楽しいからいいか……。当然ながら居室のほうを細かく描写した方がよりこの部屋の主の性質が見えるはずなんだけど、入ってくるだけで字数をあっという間に使い切ってしまった。

 ②は、移動してるけど車内という場所だからセーフ! セーフか? あとギリギリ限定視点にはしてないからセーフ! セーフです! ネタがなかなか浮かばなくて苦し紛れだけど、このあと襲撃されることは間違いなく伝わる……よね? 異国の空港に深夜早朝に到着しちゃって疲れてわけわからんまま車で移動するの結構好きなんですよね。襲撃されるのは嫌です。

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