もとはおつゆとめんは別。めんどくさくておつゆをぶっかけた。おつゆをぶっかけた!? まあそこは深追いしない。ぶっかけたらけっこういけた。てっとりばやい。江戸でブレイク。かけそばである。
「かけそばおまち」
男は樹脂製の箸を一膳、箸立てから抜く。緋色の七味の瓶を器の上でふる。店内に鳴響するだしの香りの中、七味の風が微かに鼻腔をくすぐる。
手を合わす。いただきます。無言の祈り。愛と豊穣への感謝。震える手で箸を構える。麺をひとつかみ。艶やかなおもてには小口に断たれた葱が付き従い、麺は細目。それこそ蕎麦の真髄であろう、饂飩のように太い蕎麦など、と男は思う。誇り高き香り高きつゆを潤沢に含んだそれを、彼は徐々に口元へと、運命の瞬間へと近づけていく。時間が止まる。
私は確かに、男の唇が微かに歪むのを見た――。
音をたて麺を一声にすする。男の口に芳醇なつゆの旨味が、腐海に落とされた聖女の涙のごとく広がる。が、それは蕎麦の甘味を殺しはしない。手を取り合いからみあって、そこに葱の抜けるような白烈の食感、立ち現れる七味の颯爽の香り、麺をかみしめ、頬がとろけて落ちダラダラと床に拡がり、つゆに甘く刺激され舌は半透明にふやけ、最早身体の輪郭も無く、蕎麦屋が神々しい霊光に満ち、響くのはただ歓喜の歌。
男には後悔があった。彼の母親は若いうちから肺を患っていた。母親の大好物がかけそばであった。彼が中学校卒業を間近に控えたある雪の日。世界が幻惑的な白銀の寂静に満たされ、同時に幸せにも満ちたかに思えたあの日。街路の物音は皆降り積もった雪に吸いこまれ、隣を歩く母親の咳こむ声もいつもと違う響きであった、あの日。
いかにも泣ける話風だが今のは私の勝手な妄想が挿入されただけだ。戯言を言う間にも男は芸術的作業を続けていた。すすり上げられる麺がうねりをあげ熱を帯び、男の体内で炎渦を描き昇華する。七味唐辛子が効験を顕し、額に玉汗が浮かぶ。意識まで、とうに晴明なだしつゆの快哉の叫びの中に霧消した。食を通じて男は生を確認する。刹那の生を、かみしめる。ただ、ひたすら。
完食の歓びに幾度目かの絶頂を迎え、男は瞑目した。立ち上がると全身が軽い。胃が黄金の幸いで満たされ、身体に溜め込まれた憂鬱な瘴気が抜け、生の真実の一片がそこに残ったように感じられた。蕎麦屋の残骸から瓦礫の街へ駆け出す。笑みが浮かぶ。次の廃墟まで、走れる気がする。
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短編第93期投稿。