何しろ此の時代である。少女に家族は無い。摩天楼の居並ぶ街の片隅、黴臭いアパアトメントの一室で暮らしている。近頃はその様な子供も大変多い。
或る日の暮れ方、少女は市の高架チュウブを、宛てどもなくぼんやり歩いていた。少女は毎夕そうして市を彷徨い歩く。その日の食の為である。西方に陽が沈み東方に月の残骸が揚がる頃、少女は赤銅色の市へ入る。街路の人通りは疎らで、遥か上空から、建造ロボタの労働する遠雷の声が聞える。と、少女の後を附いて歩く、一匹の猫がある。此の時代に生きた愛玩動物など珍しい。元は白であろう毛は汚れて薄墨色、まだ若い。少女は戸惑いながら、平生より世話になっている麺麭屋の青年の元へ着いた。
「此の猫、如何したら良いのでしょう?」
「奇妙なものですね。御家で飼ってみては」
青年は普段より多くの麺麭を、少女の煤けた手に握らせた。
少女は自宅へ猫をあげ、そっと麺麭と水を差し出した。猫は目を輝かせ、麺麭を齧り、水も少しだけ舐めた。そうして痩せた腹を膨らますと、部屋の隅の毛布で丸くなってしまった。寝床を奪われ少女は途方に暮れた。猫は和毛に包まれた腹を微かに上下させ、心地よさそうに眠っている。少女は恐る恐る手を伸ばし、猫の背に触れた。猫は満足げに寝息を立てている。やがて少女は猫と寄り添い、寝床に潜る。
アパアトメントの一室は全てが死に絶えたが如く動きの一切を失った。此の建物は元の住人の去ってから永く、既に空調も働かない。何処からか聞えるのは唯、機械の廻る幽かな音。
少女が起き上がる。振り返り、温かく柔らかな、幸福そうな猫を見つめる。少女は素早く立ち上がり、部屋を飛び出した。
既に闇の刻である。街燈も粗方故障したきり修繕されない此の区は、陽が落ちれば彼方上空の都の灯りが洩れ注ぐ外に光は無く、天は忌まわしいシアンデリアのようだ。少女は瓦礫に埋もれた旧市街を疾走し、先刻の市の街路に立つ。生温い風に揺れる傷だらけのワンピイス。煤けた小さな拳で、少女は麺麭屋の戸を叩く。
「一体如何したのです」
麺麭屋の青年が戸をあける。少女は青年に抱き付くように言う。
「私を飼って下さい」
「……それは嫁に貰えという事ですか。この国では許されないのはご存じでしょう」
「いいえ違いますわ、飼って欲しいの。ねえ、私を飼って頂戴」
仮初の休憩を終えた猫は、尻尾を立て廃墟へ歩み出た。飼育の関係とは、存外困難なものである。
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短編第83期(2009年8月)投稿。